あけにーブログ 〜フランスで考えたあれこれ

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マルセイユに小旅行② ー コロナ中の息抜き

 久しぶりに足を踏み入れたマルセイユは、見違えっていた。あんなに汚かった街(道の隅などに溝鼠を殺す緑の餌が所々にバラまかれていた)が整備され、建物も道も随分とピカピカになっていた。フランス語でパリに「光の街(Ville lumière) 」という名称があるように、マルセイユは「ギリシャ人の街(Ville Phocéens)」と呼ばれている。ペルシア人の占領を逃れてきたフォセアの古代ギリシャ人がその紀元前600年に作ったと言われる。ローマ人がマッシリア(マルセイユの語源)と呼んだのはその随分後からであるらしい。古代ギリシャ人がこの地形を選んだのは流石にお目が高い。「旧い港(Vieux Port)」は両側を丘に囲まれており、港が外海から守られている優れた立地条件にある。その一つの丘にマルセイユの象徴であり、守り神でもあるノートルダム・ド・ラ・ガルド教会(何故かボンヌ・メール=良い母という愛称で親しまれている)が君臨する。

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<旧い港=ビユポールからのノートリダム教会>

その地形といい、親しみやすい人々と言い、イタリアのナポリを彷彿させる、得難い魅力に溢れる街だ。また、治安が悪く、人々が陽気で調子が良いといった評判も何故か二都市に共通する。方言も色濃く、次男は直ぐにマルセイェーズのアクセントをふざけて真似したがる。すると大阪弁のようにリズミカルで面白く聴こえてくるから不思議だ。

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<サンジャン要塞付近のエリアで海を眺めることが出来る>

 港付近の観光地以外は、街中にタグで落書きがしてあったが、大聖堂の周辺は、昔と見違えるように博物館が2件も立ち、散歩道が整備され、大きな広場から海を眺めることが出来る。残念ながら、地中海文明博物館もサンジャン要塞(ルイ14世が建てた)もローマ時代の波止場博物館も閉まっていたので、さらに港の近くのノアイユ市場に足を伸ばした。

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<大聖堂を背景にした博物館エリア>

そこはまるで北アフリカであった。買い物客も、果物の値段もアフリカさながらであり、子供たちは驚いていた。夫には「スリに気を付けろ」と注意され、長男は早速、友達に「ケバブが2ユーロだ!」とSNSで報告(友人にはネズミの肉では?と疑われたらしい)。でも、危ないという感じはここではない。ただ…そこでは我々家族以外は誰もマスクをしていなかった!マルセイユでは、フランスのルールは共通ではないのか?全国マスクしていない人は罰金制度ではなかったのか?(恐らく、マルセイユの警察はもっと深刻な事件で忙しいのではないかという結論に達した)こう言った下街以外でもマスクをしている人々は人口の半分ぐらいとみた。そのルールに従うマルセイユ人のまたその半分が顎マスクである(しかし、何故か店内でマスクしていない人は見かけなかった)。実質のマスク人口は4分の1ではないか?

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ふと、18時の門限はどうなっているのか心配がよぎった。帰宅後、借りアパートのテラスから外に顔を出した18時半ぐらい、街は渋谷の交差点とまではいかないが、人に溢れていた...マルセイユには独特の常識があった事を思い出した。街は整備されていても、そこは数十年来、住んでいた頃とちっとも変わっていなかった。